大転換期 (私的論説)
30年間という、とてもとても長い間にわたる失政が日本経済を弱体化させた。老朽化したインフラ、引き継がれない知識やノウハウ、そしてコロナ経済失速。こうした巨視的な考察は、阿南市という地方経済を考えるうえでも無縁ではない。
30年と言うと、働く世代として1世代まるまるだ。この長期間に渡り、技術・知識の喪失があったのだ。 30年前、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と浮かれていた。
しかしグローバル分業で生産拠点が、安価な労働力を提供できる中国に流れ、同時に知財も流れ出た。物真似だった中国は、やがて最先端を開発する実力を蓄えてデジタル覇権を遂げた。
たとえば、5G技術は中国企業がいなければ成り立たないが、日本は家電大国だったのにサンヨーもシャープも消えて、東芝もパナソニックも往時の覇気はどこにもない。逆に日本は没落し、円は安くなった。安い円で自動車輸出してなんとか帳尻だけ合わしている。
生産の分離で開発ベンチャーも日本から居なくなった。研究開発の機能喪失は、日本を、背骨から弱体化させた。そして福島原発事故で基幹エネルギーが機能不全となり、コロナ禍で観光飲食が機能停止した。 首都高速道路はガタガタ凸凹だらけで、水道管は錆びて穴だらけ。時々、高級住宅街でも水道管が噴水を上げる始末。ガス管は大丈夫かな?30年前のインフラが成人病で、予算がないから治療もできない。
高齢化社会で年金・健保が崩壊しているが、それだけでなく、社会インフラもまた末期の国家なのだ。 こうした分析は、人もモノも寿命を迎える高齢国家の姿を見せてくれる。
では、この高齢国家をこれから支えていくのは誰か?そして彼らにどのような「夢」を我々大人が見せてあげられるのだろうか?
いわずもがなだが、これからの主役は子供たちだ。あなたの子であり孫が、この高齢国家の面倒を見ることになる。そのとき必要になるものは何か。
壁を打ち破る技術開発力であり、社会的少数であるがゆえに増大する社会保障費や税負担に耐えうるタフな精神力と財務力であり、信用度が下がる医療に依存しない健康な免疫力であり、なによりも「あるべき理想社会を思い描き、形にしていく情熱」である。
そして、かなしいかな、現実の子供世代の学習環境を見ると、期待と現実のミスマッチに愕然とせざるを得ない。現実は、不登校や調和できない子がクラスの半数に迫り、コロナで満足な集団教育ができなくなり、子供は早期習い事や塾に追われ人間らしい夢の涵養ではなく目先の成果に心を奪われている。
その責任の過半は保護者にあるわけだが、保護者そのものが日本社会の置かれている状況を客観視することができないため、子供に進みゆく針路がいかに今までと変わったかを説いてあげることができない。むしろ、保護者こそ成果主義、偏差値主義の被害者であるわけで、目先の小さな成果はみえるけれども、日本社会の病理という大海原は見えていないのだ。
それゆえに、日本の高齢国家を根本からなんとかするというような、江戸幕府から明治維新の時代に多くの志士が輩出されたような期待は持てない。持たない方が賢明だ。 子供たちだってつらいだろう。夢と言えば夏休み冬休みに、ディズニーランドやUSJに行って、つかのまのドリームにひたることだというのだから、その夢の質低下は、はなはだしい。
100歩譲って、具体的な将来像だって「ユーチューバーになりたい」というのだから、国家の舵取りを託すにははなはだ荷が重かろう。 こうした八方ふさがりの社会で、これから待ち構えているのは、壮大な変革だ。
別途、紹介したいが、世界経済フォーラムという世界会議で、「グレートリセット」という考え方が世界中の国家政府に伝達された。文字通り、壮大なリセットを行うという計画だ。 我が国も、また、地方自治体も、各種企業も、「グレートリセット」の実行に逆らうことはできない。
これまでみてきたように、崩壊寸前の高齢国家と、子供たちへの過大期待と、コロナ自粛のなかで、いよいよ壮大なリセットがなされると仮定すると、私たちは何をどう身構えておくべきだろうか?
私は身の丈に合った「地域経済社会」こそが、「グレートリセット」の大変化を生き抜く道であると考える。
例えば、「グレートリセット」には食糧危機も含まれる。そうなるとグローバルな食糧流通は望めないから、当然ながら国内自給に頼るようになる。現在の国内自給率はカロリーベースで38%というが、葉物を入れても5割程度だろう。それが今後さらに細るから、食糧自給を地域社会でなんとか完結させることが地方自治体の重要なマターになってくる。
そのプランと方策を描いておくべきだ。さらに生存の最低条件である食糧問題をクリアできても、社会的な不安を解消する必要がある。とくに高齢国家が抱えるインフラ寿命への対策をどうするか。 ひとつは再開発エリアでインフラが新しい地域への人口集約政策。
また、郊外においては自立型の暮らし、井戸水や熱源の多様化などが考えられる。極端に言えば、「グレートリセット」で石油や天然ガスの需要調整が起きる可能性は高い。その際に、懐古的だが石炭やかまどの復旧が可能であるならば、自立型の暮らしも可能性がある。
郊外エリアにおける空き家や、空き地の増加において、共同型調理かまどの設置など、地域社会を単位とした暮らしの再編を行うことで生存の可能性は高まる。
考えてみれば、戦後の高度成長に合わせて、私たちの郊外型集落は子供を都会に送り出し、世帯を多世帯同居から核家族へと切り替えてきた。核家族は、「マイホーム」という夢を国民に見させ、家電や自家用車のある暮らしを「夢」だと誘って経済振興に励んできた。国民も合意のうえで、経済成長をけん引してきたのだ。 そのような「マイホーム」=「しあわせ」というビジョンが、「グレートリセット」では大転換を迫られる。
食糧やエネルギーの枯渇においては、個という自由意思はうまく機能しなくなり、それをクリアする協働が求められるようになるだろう。 そこで必然的に生まれるのが、地区、地区における「共同型調理かまどの設置」というアイデアだ。
また同時並行して、インフラが新しい再開発エリアでの居住集約政策もある。こうしたエリア同士で、食糧物資の交換も行われるだろう。そのような価値観の転換と、カルチャーショックで子供たちは多くのことを気づきはじめるだろう。いままでのような大量生産・大量消費に支えられてきた社会制度の設計そのものを根底から見直すべきであると。
そこから、高齢国家ではなく、新生国家への長い長い脱皮がはじまるのだろう。そういう意味では、「グレートリセット」も必要があっての大転換だと捉えなおすことができる。いやむしろ、いまこそ、価値観ぐるみで大転換すべきなのではないだろうか。
0コメント